あそびのアトリエ リボンクラブ大阪池田ルーム(旧ママりす日記)





待っててはいけないこと③ :: 2017/04/08(Sat)


今回お泊まり会に参加した年長児は3人でした。


宿泊した翌日は、おにぎりを持って山を登りました。


山頂で町並みを見渡しながら、おにぎりを食べて
おやつを食べて遊んだら下山する予定でした。


ところが、登る山は 慣れた五月山とは違い、
道とは言えないような岩場、細い山道、急勾配に何度も苦しむことになりました。



とはいえ、近所の幼稚園児が登りにくるということでしたから、登れないことはないはず・・!と励ましながら
の道中でした。


山道を進むうち、身体がよく動くコとまだ重力不安があるコの間で距離が開いてきました。


毎年3月に登る五月山でもそうですが、
年令もありますが、固有感覚・前提感覚といった感覚統合には個人差がありますから早いコとゆっくりなコは当然出てくるわけで、
後ろのコが見えなくなると先頭は待ちます。


今回も何度か最後尾を待つために止まることがありました。


すると、先頭のコが
「待たないで先へ進もうよ」と言いました。

「そういう訳にはいかないよ~」

そんなやり取りを何度も繰り返しました。


最後尾のコは厳しい自然の地形に心が折れる寸前だったのかもしれません。幾度と足が止まりました。


このペースだと頂上はあきらめて、途中で折り返さなければならないと判断し、
「帰りの時間のことがあるから、てっぺんまで行くのはやめて途中でおにぎりを食べよう~」と目標変更を告げました。


先頭のコは、待つことにもイライラしていたうえ目標変更は受け入れがたく、激しく抵抗しました。
あきらめきれない様子。


そのうちに、
「ねぇ、だれのせいで上まであがれなくなったの?」と口にするようになりました。

状況はみんなの目に見えていますから、自ずと
「あの子がおそいから・・」となるのは容易でした。

最後尾のコを責めるような重苦しい空気を感じました。


それはマズイなと思いました。
「誰かのせいで~できなかった」
「ジブンの思い通りにならなかったのは○がわるい」
「ジブンができるんだから、あなたも同じようにできないのはダメ!」

誰かのせいにして責めたり、自分本位で物事を考えて他者の気持ちに寄り添うことができないと、
おそらくその集団一人ひとり不満が募るでしょう。
あ~あ、つまんなかったとなるでしょう。


これからのこどもたちが経験して身につけてほしいのは、
みんなで力を合わせて上手くいったとか、
一人ひとりはチガウけどチガイを認め合うとか、
ジブンのできることを考えるとか
役割を果たすなどといった
チームプレイの力だと感じます。


職場で求められるのはこのような力ですよね。
多くの大人は心当たりがあるのではないでしょうか。



競争社会の煽りで個人プレイは徹底的に叩き込まれるのに、チームプレイを身につける機会が乏しいことは、
テクノロジスト、アーティスト集団チームラボ代表の猪子寿之さんが以前指摘していました。


わたしは側にいる大人のメッセージとして、
「私たちはリボンクラブ年長さん、ひとつのチームなのよ。このメンバーだからここまで来れたって考えてほしいの。もし、ジブンができていて仲間が困っていたりできないことがあったら、ジブンには何ができるか考えられるといいんだけど」

そうしてあとから来るコを待つ間、
応援したり、手を引く姿へと変わっていきました。


ここでは誰が悪いとか良いとかいうことを問題にしているのではなく、
アレ?おかしいなと感じたときに黙認しないことや
出来事を通じて状況をどのように受け止めるのか?
同じ体験をしても全く別の感じ方があったり、大切なことを伝えられるかということです。


ここまで3回に渡り、お泊まり会を通じて感じたこどもたちのアレ?おかしいなと思うことをつづりましたが、
おそらくリボンクラブの年長さんに限ったことではないでしょう。
学童期に入ってこのところがグラグラしているコは沢山いますし、課題をもったまま思春期に入るコもいます。(そんな大人もいますよね)
幼児期の見過ごせない問題は、大人の世界を見たり聞いたりしたことに影響を受けていることにあるように思います。


ですから、
待っていても大丈夫か、そうじゃないのかの信念が
大人に必要だと感じます。


みんなより早く漢字や文字が書けたり計算ができるようになったり、英語を知っていたり、上手に泳げたり
学校で習うことを前倒しで知ることに価値を置かないで、


人工知能にとって替わることのできない、人間として、人間にしかできない力をどう育むのか?


そんなことが試されてくる時代になってくるような気がします。



先日、桜の木の前で入学式を迎えたランドセル姿の写真を送ってくださいました。

たくさん人と関わって、間違いながら失敗しながら
多くの価値観、考え方に触れ、ジブンの核になるものを養ってほしいなぁと願っています。



















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待っててはいけないこと① :: 2017/03/30(Thu)



こどもたちと寝食をともにするまでのゆったりした時間の経過のなかでは、普段のプレイングではみられない様々な様子をみることができます。

こどもにとってお母さんと離れて寝るなんて大事件!
その日を迎えるまでにドキドキしながら、身辺と精神の自立に向けてココロの準備をしたのだろうと思われます。


就園前から育ちを伴走してきたコも含め
若干6歳にして見事な自立の一歩を踏み出す勇気に、
大きくなったものだなぁと感慨ひとしおです。


成長も確かなのですが、その一方でアレ?と気になることもありました。おそらく一般的な傾向であり、わたしの周りのこどもだけではない事柄なのだと思われます。
待っていてはいけない、日常から周りの大人が積極的に心掛ける必要があり、家庭でも実践できることだと思うので共有したく記事にいたします。



こどもが何かをしようとする度に
「ジェリーさん、◯◯していい?」と許可を求める、あるいは「◯◯がわからないからおしえて」とスグに尋ねて問題を解決しようとする点です。


普段のプレイングで信頼関係を築いてきたと自負していたため、余りにも尋ねられることの多さに面食らってしまいました。
(もちろん、この場面での愛着対象が「ジェリーさん」に変わったための揺らぎの心理状態が充足を求めるために一層の関わりを求めたのかもしれないことを考慮に入れてもですが)

~していい?
コレでいい?
わからない、おしえて!
知らないからできない!


わたしは本当に困っているときはもちろんサポートしますが、
ジブンの頭で考えてできる(できそうな)ことには
「あなたはどうおもう?」と聞き返してみたり「考えてやってみるといいよ」と不親切ともとれる対応をします。

まちがってもいいと思っているので、上手くできないから、あるいは失敗したからといって叱ったり報復したり恐怖を与えたことももちろんありません。
ですから、スグに聞いて解決しようとする場面に立ち会うと、残念に思えて仕方ないのです。

お手伝いするタイミングは先回りせず、どうするか待ってからでも遅くないと考えているからです。


こどもの承認欲求が強いとも言い換えられるでしょうか。(このような大人もたまにいますよね)


「いいよ」って言ってもらえないと不安。
ジブンというフィルターに通して考える前に大人に聞いて言う通りにするのが安心。
ものごとには正誤があって、間違ってはいけないと思っている。あるいは怖れている。
ジブンの判断は未熟で、いつも大人は正解を持っている。




外がわから善し悪しの評価をされることを早期に身につけてしまったため、ジブンの頭で考えて判断する前にジブンの外がわにある物差しで問題解決を図ることが習慣化していると、


やったことのないことは出来ない。
教えてもらわないと困ってしまう。
出来ないからやりたくたくない、といったふうに
新奇なことに挑戦する意欲を持てないどころか不安や恐怖にストレスを抱えることにつながるでしょう。
拒絶したくなるのではないでしょうか。

でも考えてもみてください。
小学校で出会う初めてのことはたくさんあるはずです。
世の中は正解のない問題に満ち溢れていますよね。


小学校は幼児期とは違っておうちの人との関わりがうんと減り、ジブンでジブンのお世話をすることが増えます。お友達との関わりが増え、ジブンで考えて判断して行動することが求められます。


ですが、小学校に入る準備として世の中にある習い事といえば、前倒しで算数の計算や文字を書いたり、
英語が必修になるといえば英語教室へ、
高学年の臨海学習で遠泳があるといえばスイミングへ
プログラミングが必要といえば教室へ、
といった具合に近い将来に備えて貴重な午後の時間を毎週削ってそのときのために訓練している訳でしょう。


以前、虹色教室の奈緒美先生が記事にされていましたが、家庭が家庭の機能を果たさず、もはや学校の予備校のような役割を担っている、との指摘は頷けます。


習い事が悪いと言っているのではなく、


何か成果を得ようとあらゆる習い事の門を叩いては辞めるを繰り返してこどもを連れ回したり、
こどものあれこれ試す自由なあそびの時間に替えてでも、
お母さんが送迎で忙しく疲れてしまうほど、ホントにその習い事ってこどもに必要なのかな?と疑問に感じます。


子育てをジブン意外の第三者に関わってもらいサポートしてもらうことは親子共々成長したり、新たな気づきが生まれるでしょう。
親の「ジブンのこどもをこんな風に育てたい」という強い信念があれば、幼児にとって家庭こそがまさに生活の場であり、自立のための機会に溢れているのです。

こどもと一緒に
洗濯したり、干したりたたんだり収納すること、
手はずを整えて切ったり、計ったり、炒めたり、煮たり調理をすること、
ものを片付けて、掃除をすること、
庭の草を引いたり、花や野菜を育てたり、
昆虫や動物を飼育したり・・

どれも身辺の自立に必要なスキルですが、全ておうちの人と会話をしながらできることばかりです。
幼児期こそ一番親と向き合え、家庭にいられる時間がたっぷりある時期です。

ジブンってスゴイと思える自己有能感が大切ということは広く知られていますが、その有能感の材料が誰かより何かができることや競争の中で優位に立つことにアンテナを向け続けていると、思春期以降社会と関わりを持っていくことが困難になってきます。


時の経過と共に疲れてきたり、ジブンが絶大な信頼を寄せていた有能感は実際にはそれはそんなに大したことではなかったと気づいたときに、自己のパーソナリティまで侵食されかねない危うさをはらんでいると思うのです。


ここまで記事にしたところで膨大な文字量になり、でも大切なことはシンプルで少しなのに、うまく表せないジレンマに宿ってしまって荒尾ルームのレオさんのブログ「自己肯定感を育てるって?」
を読みました。

偶然にもレオさんと同じような内容で、同じようにもどかしい気持ちでいることが伝わってきて少しホッとしてしまいました。



続きます。











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最先端の幼児教育とは :: 2017/03/17(Fri)


おそらくSNSで目に止まったのを
iPhoneのホーム画面に貼り付けていたのだと思います。


こどもの、もっといえば乳幼児期の教育について
世界中の専門家が研究の対象としています。


これを見てもリボンクラブの考える子ども観やアプローチの仕方は間違ってないだろう、
最先端であると捉えています。


下記を押してぜひ読んで見てくださいね。
先の記事のジジさんのコメントとリンクすると思います。


↓↓↓↓↓↓↓
『子供の脳の発達に最も影響するのは「遺伝」でも「早期教育」でもなかった! 各国の専門家が解説』





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ジジさんからのコメント :: 2017/03/16(Thu)


リボンクラブは、赤ちゃんから、おおよそ7歳までのあそびのアトリエです。



もし、第一子の赤ちゃんがいらっしゃっるとして、赤ちゃんがハイハイするようになったら、リボンクラブにいらっしゃいませんか?



それは、お母さんになっていく7年間でもあります。もちろんパパもそうなのですが・・・。





赤ちゃんは、双葉を出して小さな幹をつくり、枝葉を伸ばしていく植物のように成長していきます。



これが、リボンクラブの子ども観です。





身体の運動では、仰向けの時代(0~6か月)があって、うつ伏せの時代(6~12か月)に入り、そして二足歩行の時代(1歳~)に入ります。



そして、生後6か月を過ぎてくると、赤ちゃんは移動をはじめます。まだわずかですが、両手で胸を支え、前方にあるものを見て、それをゲットしようとガンバリます。ときには、前に進まないこともありますが・・・・。



それから、わずか6か月で2足歩行で歩きはじめようとします。



このころには「指さしも」できるようになって、「あれはなんだ?」「これはなんだ?」とは言いませんが・・・・・・、



言葉の原初的な姿が出てきます。



もし、進化心理学や、比較動物行動学、人類学の先生がいるとしたら「われわれは、いつころから、ゆびさしが、できるようになったのだろうか?」と考えたことがあるかもしれません。



200万年前のホモ・ハビルスか?それとも、160万年前のホモ・エレクトスの時代からか?」



なんだか、壮大な話になってきましたが、指さしができる動物は、地球上では人間だけなのだそうです。



このはじめての「指さし」から、わずか1年後には子どもは2語文を話し、あるものを別のもので見立て、道具が利用できるようになります。



そして、3歳近くになると「ワタシガ・・スル・」「ジブン・・スル・・」と言うようになります。



ちょっと意地悪質問しますね。



さて、この「ワタシ」とはなんでしょう?





今日の年中のお二人さんは、長さの違う5個の積み木の「配置の問題」に

チャレンジしたようですね。



お二人の出来栄えも「いい感じ」と思ったのですが、あれこれ教えられすぎた子どもは、こういったテーマにチャレンジっしてきません。評価されることに目がいき過ぎてしまうからです。



さて、長い積み木、短い積み木、中くらいの積み木、少し長い積み木、ちょっと短い積み木、で構成された「配置問題」ですが、それを縦・横・斜めに配慮しなければなりません。



大人には簡単な問題ですから「なんだ」と思うかもしれませんが、重要なことは、この課題が5歳半前後にできるか?ということです。



大人になってこの課題ができても、それは人生のなんの栄養にもならないでしょうが、5歳半前後にかけて、この課題にチャレンジすることは、それ以後の子どもの人生の栄養になると思います。



なぜなら、この時期に「中くらい」と言う概念を持つこと、「ほんの少し」と言う概念を身につけることは、とても大切だからです。



教えられて学んでいく世界もありますが、教えられないで学んでいかなければならない世界もあります。



そして、子どもたちは「あそぶ」と言う方法を選んだようです。





「教えなれないで学んでいく世界」



これが少なくとも「乳幼児期の7年間」だと思いますね。



「教えられないと、なんにもできない・・・・」



このようにならないように気を付けたいものですネ。










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ジジさんからのコメント :: 2017/02/13(Mon)

先月1/19付けの記事<ママと離れても大丈夫だもんね>のジジさんのコメントを紹介させていただきます!


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<ママと離れても大丈夫だもんね>
とても面白いテーマですね。

ことに2歳2か月の〇ちゃんと3歳4か月の☆ちゃんの行為が対比されていて、興味深く思いました。

1960年くらいから始まったM.S.マーラーの研究が「乳幼児の心理的誕生」(黎明書房)にまとめられています。

簡単に言えば「赤ちゃんはどのようにして個性を獲得するか?」と言うテーマです。

ちょうどリボンクラブと同じような枠組みを作って、子どもを自由に遊ばせながら、母と子どもの様子を臨床的に観察しながら、こころの分離過程を分析した内容です。

ボールビーのアタッチメント理論をイメージしていただければいいと思います。

その本の中に「情緒対象恒常性」-ジョウチョ、タイショウ、コウジョウセイーと言う言葉が出てきます。

どういうことかというと、「母親のイメージがこころの中に保存できか・・・」ということです。
ちょうど2歳2カ月の〇ちゃんと3歳4か月の☆ちゃんの間に流れている川のようなものですね。

これは譬えですが、〇ちゃんは年齢的にまだ川の手前であそんでいて、☆ちゃんはその川を渡ったところであそんでいます。

〇ちゃんはママの視線が感じられるところ、ママの姿が見えるところでは注意を集中してあそぶことができますが、ママが見えなくなると注意の集中が難しくなります。

☆ちゃんはママが見えなくても、安心できる大人(ジェリーさん)がいれば、一定時間は注意を集中し、持続してあそぶことができます。

これを「個体性の確立と情緒対象恒常性のはじまり」といいます。

おおよそ2才6か月から3歳にかけて、この川を上手に渡ることができれば、新しい世界への視野が広がってくるということです。

この場合の新しい世界とは、家庭の以外の世界です。
ですからマーラーに言わせれば、母子共生段階からの最初の目標はこの川を上手にわたることです。そのキーワードになるのが、ジェリーさんが言われる「母と子の距離感」でしょうね。

その川を上手に渡った〇ちゃんは、「個性を確立した一人の女の子」と考えられ、自分の考えが表明できるようになっていきます。まだまだ自己中心的段階で、大人から見れば「メチャクチャな意見」を表明するのかも知れませんが、とりあえずジタバタしながらも、これからはジブンの行動を制御していくことを学んでいくでしょう。

子どもは植物のように成長していきます。これはジジの感想ですが、フレーベルもそのように考えたようです。ですから子どもの学ぶ場を、キンダー・ガルテン「子どもの園」と名付けたと言われています。

蛇足になりますが、20世紀の前半に行動主義心理学が台頭し、刺激と反射を単位として、子どもの頭脳をコントロールできると考えるようになりました。特にアメリカで主流にになったようですが、スキナーの新行動主義でも「動物の行動をコントロールできるように、子どもの行動をコントロールできる」と考えるようになりました。これがアメリカの商業主義と一緒になって、知育教育が盛んになったようです。

簡単に言えば「目標を見つけ、それをゲットする」という、子どものあそびのプロセスを研究対象から外したことと、ゲットした時の内的報酬(よろこび)を、外的報酬(賞罰)に置き換えてしまったようです。

もっと簡単に言えば、子どもの頭脳をコンピューターのハードウェアーに譬えて、教育内容を自分たちの開発したソフトウェアーにしたと言ってもいいかもしれません。

どんな研究にもそれぞれの時代の背景があって、功罪交々ではあるのでしょうが、子どもの情緒的成熟を無視したということは、罪になるのではないかと思いますね。

精神分析学の用語に「カセクシス」と言う言葉があります。「情緒的結びつき」のことです。たとえば、子どもが散歩をしていて、ドングリを見つけて、ママにプレゼントしようと拾って帰ります。この時のドングリは子どもにとってとても大切なもので、情緒的に結び付けられています。ですからこのとき、そのドングリを失くしたり、プレゼントを受け取ってもらえないと、パニックを起こしたり失望したりしますよね。

行動主義心理学の教育は、こういった世界との情緒的結びつきを、研究の対象から外して考えたようです。

「早く早く、隣の子どもより賢く、少なくとも隣の子どもより遅れないように」とおおよそ50年間、ママの気持ちを掻き立ててきた原因ですね。
少し長くなりすぎました。ごめんなさい。

運動発達・情緒発達・認知発達はいづれも、子どもの発達にとっては大切なことです。

そして、そのことを誰よりもよく知っているのは一人の科学者ではなく、子ども自身です。

子どもを信頼して、私たち大人の考え方を再考していくことが、今必要な時かもしれません。




*********************



ジジさんの指摘されている運動発達・情緒発達・認知発達、この三つの領域に配慮した乳幼児の場所が日本にどれだけあるのかわかりません。

なかでも「情緒発達」に関しては一番置いてけぼりになっているように感じます。

こどもがどう感じようが構わないで、
一方通行の刺激を与え続けることに時間や労力やお金を費やすことの価値があるかどうかを、
友だちや近所の人や、確証のない噂ではなく
私たちの頭の中でよく考えてみる必要があります。



答えは子どものなかにあります。

残念ながら大人は持ち合わせていませんので。




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