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あそびのアトリエ リボンクラブ大阪池田ルーム





おとまりかいで感じたこと :: 2019/04/26(Fri)


さて、今回
熊本中央ルームのおとまりかいに池田ルームも混ぜてもらう形で行なった訳ですが、


子どもたちは初対面とは思えぬほど素でした。


それはたまたま人見知りなコや敏感なタイプのコがこの集団にいなかったからなのかもしれませんが、


サポートするスタッフとしては特に気を配る必要がなく、負担感ゼロでした。

※もちろん表情や行動は観察していますし、全行程において安全を保証する配慮はしています。


熊本の年長さんの中には、彼らが幼稚園に通う前からプレイングを通じて知っているコも含め、
みんな大阪からやってきたわたしと年長男児を受け入れてくれ、また同様に池田ルームの男児もそうだったのです。



まず相手を信頼できる、信頼しているということが前提として成立していることがわかります。
その能力は、孤立しないで社会に適応してコミュニケーションをとる土台となる力ですね。


持ち物の管理も概ねできていて、
どこかに何かを忘れてきたとか、
何かがなくて困るといったことはありませんでした。


全ての活動に、ジブンのペースで関わっていたように見えました。


夜ねるときに不安が高まるコもいましたが、
お母さんが見えなくてもスタッフが寄り添うことで表象を持ち、一人のジブンとして自立できていたようにおもいます。


一方でわたしが気になったのは、
ジブンの食べれる「ちょうど」の量を知らないコが多かったことです。


ごはんのときには、
みんながお腹すかないよう充分なお米を炊いて準備しますが、食べきれなかったのは残して良いとは思ってはいません。


人間が生きていく、食べていくことは
たくさんの生命の犠牲の上に成り立っている訳ですから、
命をいただく、
ありがたくいただく、
残したらもったいない

そんなふうに感じてほしい願っています。


私たちの生活が第一次産業と離れたところにあり、
食べることに不自由をすることのない飽食のこの時代に、このようなメッセージを子どもたちに伝えるのは非常に難しい問題です。




この点は側にいる大人が積極的に働きかけないと子どもたちが自然に身につけることは期待できそうにありません。



以前、わが家で預かっていたファミサポのこどもの残食が多いことに頭を悩またことがありました。


聞けば、残したらお母さんが食べてくれるからいつでも残している、と話してくれました。


気分が悪くなる、吐きそう、もうこれ以上食べれない、
お腹いっぱい、

確かにこれ以上食べる必要はないとおもいます。


私たち大人はこれまでの経験から自分の体調に合わせて食材を決めたり、量を調節することは可能ですが、
子どもが大人と同じようにできるとはもちろん考えていません。


そのことを考慮した上で、
ご飯だけジブンでお茶碗によそってもらうことにしたら、それから残ることはうんと減った、ということがありました。


そこで、みんなに
「〝食べ放題〃とか〝バイキング〃っていうレストランあるよね。いろんな種類のおかずやデザートがいくらたべてもいいってゆうシステムよね。すごいよねー。
でも、アレも食べたい!コレも食べたいってお皿てんこ盛りに入れるとするじゃない?途中でお腹いっぱいになったらどうする?残すのってどうなんだろうね?」

と話してみると、

首を振ったり、
ダメだと思う、
など、
否定的な反応を示すコが多かったのです!


食べ物を残すのは良くないこと、と思っているようです。



「そうね。いくら食べてもいいけど、これだけ食べたらお腹いっぱいになるっていうジブンのちょうどいい量ってあるよね。それぞれみんな違うとおもうけど、それ知っておくのがよいよね」

と話しました。



わたしが小学生の頃は、
給食で食べ物を残すことは許されていなくて、時間内に食べきれないでいると、そのあとの掃除の時間になっても席を後ろに下げられてなお食べ続けなければいけませんでした。
これは、食べ物に感謝して残さずいただく。
好き嫌いをなくす。という点に重点を置いていたのだとおもいます。



たしかに間違いではないと思いますが、
食べる量に個人差があることや、味覚の過敏性や先天的に偏りを持っていることは考慮に入れられていませんでした。


その結果、無理して牛乳を飲まされ、級友の見てるところで吐く羽目になることもありました。
このコの心がどれだけ傷つき、何を得たのかいうまでもありませんね。


現在では学校でここまで強制的に食べさせることはないと思います。本人の申告により量の加減に応じているようです。


以前、ATACカンファレンスで聴いたのではないかとおもうのですが、
やれ栄養が偏るとか、バランス良く食べなきゃダメ!とか言う人がいるけど、食事の時間が苦痛でたまらなく感じているくらいなら、好きなものを好きなだけ食べてて大丈夫!わたしはそれでもこうして生きてる!と講演されている方がいました。


そのとき、そうなのかー!と衝撃が走ったことを今でも覚えています。



話がおとまりかいから逸れてしまいましたね。


飽食の時代の今こそ、
その場の雰囲気やテンションに流されることなく、
自分の「ちょうど」の量を知ることや
残食を減らす工夫が個人、家庭で大切だと感じました。

























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食餌のマナーについては、良く言えばオープンに、マイナスに捕えると、食物に感謝する気持ちは少なくなってきているかも知れませんね。

ジジの子どものころは「立って食べる」ということは考えられませんでした。でも今は立食パーティーや歩行者天国ようなケースでは、立ちながら食べる楽しさを味わうことができます。

食物に対する感謝の気持ちは、加工食品の生産とともに薄れてきているのかも知れませんね。

豚肉や牛肉を料理して食べる時も、豚や牛を食べているという自覚はありません。誰かが何処かでトサツし解体しているのだと思いますが、そのプロセスを見ることはないので、罪悪感がありません。私たちが見るのは、g単位で分画され発泡スチロールのトレイの中の文字通りの豚肉や獣肉です。

かって(20年くらい前の話)ですが、リボンクラブでの年長児の最後の授業は、レストランで洋食を食べることでした。「食事のマナーを身につけて欲しい」という意図でしたが、そのころでもレストランの食事は珍しいことではなくなっていたので、数年でやめてしまいました。続けていてもよかったかも知れません。

食事のマナーや自分の食べる分量については、自然に身につけて良く領域とは違うので、私たち大人の考え方を反映しているのかも知れません。注意していきたいところです。

「負担感のない子どもたち」ということでしたが、負担感のない子どもというのは「自由さのある子ども」と言い換えることが出来ると思います。

「理性の自由さ」という言い方はしないので、ここでいう自由さとは「精神の自由さ」です。リボンクラブが守ろうとしてきたことは、この「精神の自由さ」かも知れませんね。

今日モモさんと「リボンクラブ」について話し合ったのは、幼児期と学童期の不連続性についてです。一般的な「発達という概念」で捕えると、幼児期と学童期は連続しているように見えます。それは概ね「脳の機能」を中心に考えてしまうからです。

田中昌人の理論では、理性の芽生えは5歳半から6歳ころということです。ピアジェの「量の保存」や「数の保存」の課題ができるのもこのころからです。ですから理性的に考えることができはじめるのはこのころからなのでしょう。これが学童期といわれる時代です。

では、それ以前の時代はどのように特徴づけられるのでしょう?。

それは、おそらく「精神の時代」を生きている人たちです。ここでいう精神とは道徳的な概念ではなく、フロイトから始まって、ウィニコット、ジョン・ボールビーにいたる研究課題であった「精神」です。

ボールビーのアタッチメント理論は、母と子の間で繰り返されパターン化されていく精神の物語と考えることができます。ここに自由さと不自由さと言うテーマが始まります。そしてこれらは「個人の性格」に影響を与えていきます。

私たちが感じる「負担感のある子ども」というのは、精神の不自由さの中で苦しんでいる子どもと言い換えることも出来そうです。

今回のお泊まり会に参加した子どもたちに対して「負担感を感じる子どもはいませんでした」という言葉は「おおむね、子どもたちは精神の自由さを確保して、
小学校に入学していくようです」と言えるのかも知れませんね。









  1. 2019/05/09(Thu) 17:57:06 |
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  3. ジジより #-
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